Maxim Simonenko | ヒストリー

私の使命

描くことで人と繋がり、描く楽しさを伝える。私の使命は、ただ絵を描くことだけではありません。対話を通じてその人の個性を描き出し、そして「顔を描くこと」の面白さを多くの人に伝えることです。 赤ちゃんの頃から、自分はアーティストになると確信していました。一時は環境や家族の影響でその夢を忘れていましたが、18歳で再確認し、24歳でついにアーティストとしての人生に飛び込みました。道のりは決して楽ではありませんでしたが、今はこのアーティストとしての毎日を心から愛しています!

道のりには多くの困難がありましたが、私は今の「アーティスト人生」の毎日を心から愛しています!

すべての始まりは、ここから

1984年:ウクライナで誕生 ウクライナのドニプロペトロウシクで生まれました。子供時代の思い出は本当に最高なものばかり。自分たちで木の上に家を建てたり、野良犬の群れと一緒に近所を駆け回ったり、森で取っ組み合いの喧嘩をしたり。変な滑り台を自作したり、木登りの記録に挑戦したり……とにかく遊び倒していました。1995年:ドイツへ移住 11歳の時、母と兄と一緒にドイツのミュンヘン近郊へ引っ越しました。でも、外の通りには(ウクライナと違って)誰もいなくて。自作の弓矢を持って「誰かかかってこい!」と一人で立ち尽くしていたのを覚えています(笑)。 結局、対戦相手がいないのでPCゲームやアニメにハマりました。まだ若かったおかげで、半年でドイツ語の読み書きができるようになり、学校でも「成績優秀な優等生」キャラをキープできました。😉この頃は、絵を描くのは数ヶ月に一度。パソコンに夢中でしたし、家族からも「将来は安定して稼げる仕事を」と数学やテクノロジーの道へ進むよう叩き込まれていたので、学校でもあえて美術の選択は避けていました。

アクティブなITエンジニア

2003年:ITエンジニアとしての修行 ミュンヘンの工科専門高校を卒業後、大手企業(Bosch und Siemens Hausgeräte GmbH)でITシステムエージェントの訓練生として採用されました。2年に一度しか募集がなく、厳しい知識テストを勝ち抜いた人だけが入れる狭き門でした。当時の私は勉強熱心で、学校の成績も一般教養もトップクラス。まさに「優等生」でした。将来アーティストになるなんて、当時は誰も想像していませんでした。この仕事のおかげで、ミュンヘンで一人暮らしを始めることもできました。2006年:ビジネス・リクエスト・マネージャーとして勤務 仕事の傍ら、カンフー、クライミング、パルクールなど、ハードなスポーツに没頭していました。刺激的であればあるほど燃えるタイプでした(笑)。 卒業後はそのまま同じ企業に就職し、プロセス管理のマネージャーとして研修やプレゼンを担当しました。ITの世界よりもコミュニケーションに関わる仕事に惹かれていきましたが、それでも心は満たされませんでした。 「アーティストになりたい」という心の声は日に日に大きくなり、ついに無視できないほど強くなったとき、私は仕事を辞める決意をしました。2008年 ITエンジニア職の辞職 当然、友人や家族は大反対。多くの人と連絡を絶つことになりました。でも、自分の天命に従わなければ、すぐに病気になってしまうと分かっていたのです。 フルタイムで働き、スポーツをしながらも、ミュンヘンのデッサン教室に通い始めました。職場でも密かにストーリーを書き、マンガを描いていました。そして気づいたのです。本当にアーティストになりたいなら、中途半端ではなく、全ての時間を絵に捧げなければならないと。

ITエンジニアからアーティストへ:存在不安との戦い

2008年:存在不安との戦い ITエンジニアの仕事を辞め、バイロイトへ移住しました。大学には行かず、独学で「世界一の描き手」になることを目指したのです。ミュンヘンより生活費が安かったことも理由の一つでした。「1年あれば凄くなれる、ただ描きさえすればいいんだ!」……そう思っていましたが、現実は厳しく、何年経っても仕事をもらえるレベルには達しませんでした。死に物狂いで描き続け、大きな進歩はありましたが、生活の不安は常にありました。2年後には貯金が底をつき、デッサン教室や単発の仕事でなんとか食いつないでいました。最初はマンガを描いていましたが、稼ぐためにゲーム業界向けのデジタルペイントへ転向。液タブに慣れるまで1年かかり、ポートフォリオを作っては応募し続けましたが、3年経っても仕事は見つかりませんでした。その後、さらに修行するためベルリンへ。この時期は不安と疑念に押しつぶされそうで、人生で最も辛い時期でした。2011年:ついにコンセプトアーティストに! そんな中、ついにミュンヘンの「Realmforge Studios GmbH」でコンセプトアーティストとしての職を手にしました!!! 3年半の猛烈な独学と、師匠たちの助けを借りて、ようやく夢を叶えたのです。アート業界の素晴らしいところは、学歴ではなく「ポートフォリオ」だけで評価してくれること。そこで1年間、ゲーム『Dark』の制作に携わりました。仕事内容は最高でしたが、やはりオフィスワークは自分に合わないと実感。また、4年半も絵のことだけを考え続けた結果、手首を痛め、一時は絵を描くのが嫌になるほど燃え尽きてしまいました。休息が必要だと感じた私は、すべてを一度リセットし、世界一周の旅に出ることにしたのです!

2012年:日本での2年間の自分探し

2012年:2年間の自分探しの旅 ドイツを出発し、ポーランド、ウクライナ、ロシアを経て日本へ。日本には1年間滞在しましたが、「世界で一番心地よい場所」だと断言できます! とはいえ、その1年は決して楽なものではありませんでした。手元にはワーキングホリデービザと、わずか2000ユーロの資金。物価の高い日本で、日本語も話せずに生き抜くのは至難の業でした(笑)。そこで私の作戦は、まず田舎へ行くこと。WWOOF(農場などでの手伝い)を利用して、食住を確保しながら文化を学びました。農家やレストランで手伝いをする代わりに食事と寝床をもらうことで、日本での生活に慣れ、日本語を勉強する時間を稼いだのです。最初の4ヶ月間は他の外国人を避け、毎日猛烈に勉強しました。日本語に集中しすぎて、途中で出会ったドイツ人にドイツ語で返せなくなったほどです(笑)。でも、この極限の集中力のおかげで、日本語を早く習得できました。その後、福岡、名古屋、東京へと旅を広げ、各地で作ったネットワークを通じてカフェやレストラン、バーなどで働きながら資金を稼ぎました。東京ではCMに出演したこともあります! 一箇所に留まらず、南から北へと移動し続けましたが、出会った日本の方々は言葉にできないほど親切でした。皆さんの助けがなければ、今の私はありません。本当に感謝しています。日本は大好きですが、日本の会社員として働いたり、子供を日本の学校に通わせたりするのは、規律が厳しすぎて私には向いていないとも感じました。レストランで11時間シフトをこなし、料理長がこっそり賄いをくれた時は「外国人ボーナス」を最大限に活用しました(笑)。 もちろん、日本を一括りにはできませんが、この国の文化や考え方は自分にとても合っていると感じます。日本語も、皆が思うほど難しくありません!ひらがなとカタカナだけなら2日で覚えられますし、少しのキーワードを知るだけで会話がぐっと楽しくなります。この旅の間、4冊のA4スケッチブックを旅の思い出と記録でいっぱいにしました。🙂

アーティストとして「稼ぐこと」に向き合う時

2015年:DeviantArt(知名度は上がったが、収入はわずか) 1年間、DeviantArtでエルフの肖像画ばかり描いていました!どうしても有名になりたくて、なぜか耳を尖らせて描くのが大好きだったんです。フォロワーは3000人に増え、依頼を受けたりチュートリアルを作ったりして技術は格段に上がりました。でも、この時期もやがて終わりを迎えます。2016年:子供向けアートスクールと市民大学(生活できる程度の収入) 子供たちに教える経験を積みました。小学1年生から5年生までを毎週教え、多くのことを学びましたが、新しいプロジェクトに挑戦したくなり、次の道へ進みました。2016年:ぬりえプロジェクト 数ヶ月間、「Tentangli」というぬりえシリーズに没頭しました。意外かもしれませんが、ぬりえを描くのは凄くリラックスできるんです!また、写真の撮り方やネットショップの構築、動画制作など、販売スキルを磨く良い機会にもなりました。イベントでも好評でしたが、別の忙しい仕事が入ったため、このプロジェクトは一旦お休みすることに。2017年:映画の背景画の仕事 ロストックにいた4年間は激動でした。劇場版アニメ『Princess Emmy』の背景画家として、フリーランスで週3〜4日働きました。背景画は未経験だったので、凄く苦労しましたが、必死に食らいついて上達しました。ただ、やはり「オフィスワークは自分に向いていない、自分のボスは自分でありたい」と再確認し、貴重な経験を経て独立しました。2017年:デザインアカデミーでの講師 デザインアカデミー・ロストックで解剖学(人体の描き方)の講師も務めました。学生たちに徹底的に人体の描き方を教えた素晴らしい時間でしたが、私の教え方は少し独特すぎたかもしれません(笑)。2018年:プレネール(野外写生)フェスティバル このフェスティバルへの参加は大きな転機でした。「外で描く」という新しい世界が開け、共演した講師たちから多くを学びました。これ以降、私の興味はPCから野外での写生へと移っていきました。2019年:イベント似顔絵師としての飛躍 「人を描くのが好きだ」という原点に立ち返り、似顔絵の提供を始めました。最初は小さな個人依頼から始まりましたが、地道に活動を続けるうちに、数年かけて活動の幅が大きく広がっていきました。 今ではスターバックス、コカ・コーラ、ブリザード・エンターテイメント、ワーナー・ブラザースといった世界的な有名企業から依頼をいただけるようになり、テレビ番組への出演も果たしました。これは本当に楽しく、プロとしての最高の修行になっています!

ライブ描画の極意と、オンライン講座・出版への展開

2020-2024: ライブポートレート、シーン描画、グラフィックレコーディングの依頼が殺到 ライブ描画の仕事がこれほど発展するとは驚きでした。素晴らしいクライアントに恵まれ、仕事は多種多様で、報酬も納得のいくものでした。正直、「ドイツはアーティストには向かない国だ」と思っていましたが、その考えは完全に変わりました。これほどアーティストが重宝され、高い報酬が得られる国を私は他に知りません。特にキャリア初期、KSK(芸術家社会保険)制度には本当に助けられました。ライブ描画の幅をシーン描画やグラフィックレコーディングへ拡大 ポートレートを描くのは大好きですが、何千、何万という人を描き続けるのはかなりのプレッシャーでもあります。そこで、シーン描画やグラフィックレコーディングを始めました。これらはイベント中に情報を収集し、後から調整もできるため、数分で完璧に仕上げなければならないポートレートとは違う楽しさとリラックス感があります。マンガ完全オンライン講座の制作と2冊のマンガ技法書の出版 最初の線から解剖学、そしてマンガの1ページを完成させるまでを網羅した巨大な講座を作りました。当初はポートレートに専念するつもりでしたが、マンガの描き方への要望があまりに多く、講座と本の両方を制作しました。マンガは私が絵を始めるきっかけであり、今でも私の心の拠り所です!

娘の誕生、日本移住、そして日本でのキャリア構築

日本への移住 妻も私も日本が大好きです!娘が小学校に上がる前に、思い切って移住することを決意しました。育児と日本への移住準備で時間はいくらあっても足りませんが、プロのフリーランスとして長年培ってきた「柔軟性」と「生存戦略」には自信があります(笑)。アーティストとして日本でどう活動していくか、今はその可能性を模索している最高にエキサイティングな段階です!日本でのスケッチ旅行(アートツアー) 日本の人々、建物、自然、そして食!すべてがインスピレーションの源です。これまでの旅で、すでに10冊以上のスケッチブックが思い出と絵で埋まりました。この感動を他の人とも共有したいと考え、日本での「スケッチ旅行」を企画しています。これは私自身が心からやりたい仕事の一つで、すでにウェイティングリストに登録してくれている方もいます。きっと素晴らしい体験になるはずです!日本でのライブ描画 ドイツで成功したライブ描画を、日本でも展開したいと考えています。もちろん日本は勝手が違いますが、まずは自分のスタイルで挑戦し、学びながら適応していくつもりです。 イベントでの似顔絵やグラフィックレコーディングのご依頼については、日本市場向けの専用サイトを開設しました:Maxim Simonenko - Visual Artist Japan 日本での最初の仕事が今から待ちきれません!ドイツ向けオンライン講座の継続 マンガの本場である日本に拠点を移したことで、私の「マンガ絵教室」もさらにパワーアップしました。ライブトレーニングや効果的な動画を通じて、アニメ・マンガ好きの皆さんの上達を全力でサポートしていきます。 (ポートレート講座については、今はマンガと日本での活動に集中するため、一旦お休みしてアップデートを待ちたいと思います。:) )

アーティストとしての進化:マキシムの成長記録


2002年

18歳の時、「アーティストになりたい」という雷に打たれたような衝撃的な気づきがありました。あの時の感覚は一生忘れません!この年、初めて自分の想像だけで描いた絵が誕生しました。当時は『ドラゴンボール』や『新世紀エヴァンゲリオン』の大ファンで、そこから私の描き手としての歩みが始まったのです。


2003年

当時は数学コースに在籍し、ITスペシャリスト(情報処理技術者)としての修行に励んでいました。絵を描くのは、もっぱら週末や休暇の間だけでした。


2004年

初めての短編マンガを描きました!当時は中世の甲冑(かっちゅう)を描くのが大好きで、よく絵のコンテストに応募していました。…といっても、一度も入賞はできませんでしたが。


2005年

当時は「書くこと」も私にとって大きな情熱の一つでした。自由な時間はすべて、スポーツ、絵、そして執筆活動に注いでいました。少しずつインク(墨)を使った描き方にも慣れてきた頃です。カンフーを習っていたこともあり、格闘シーンを描くのが何よりの楽しみでした。


2006年

ITスペシャリスト修行の最終年。すでに一人暮らしを始めていたので、夜や週末はさらに描き続けることができました。また、他の絵描き仲間と集まるのも楽しみでした。グループで活動することで、より一層作画に集中することができました。


2007年

ミュンヘンでITエンジニアとしてフルタイムの正社員になり、働き始めました。安定した収入を得られるようになったので、その資金を個人の絵画レッスンに充てました。先生方の指導は本当に大きな助けとなり、当時は気づけなかった多くのことを、数年経ってからようやく深く理解できるようになりました。 ちなみに、この頃のカラー作品はガッシュ(不透明水彩)で描いたものです。


2008年

絵の上達スピードが遅いと感じ、思い切ってITエンジニアの仕事を辞めました。ミュンヘンを離れ、ほぼ毎日絵を描く生活をスタート。まずはマンガに専念しましたが、出版社には採用されず、コンテストでも結果は出せませんでした。最初の1年は、それまでの仕事のおかげで十分な失業保険を受け取ることができたため、金銭面では安定した環境で挑戦を続けることができました。


2009年

資金が底をつき始め、経済的に厳しい状況になっていきました。しかし、絵に関係のない仕事には就きたくないという強い思いがありました。そこで、マンガ家やイラストレーターとしての活動をより精力的に行い、仕事を探し回りました。また、この時期に自分にとって初めてとなる「絵画教室」も立ち上げました。


2010年

小さな単発の依頼と、自分の絵画教室(Maxim's Zeichenkurse)の収入で、なんとか食いつなぐ日々でした。上達するために、持てる力のすべてを作画に注ぎ込みました。これほどまでに上達に時間がかかるとは、当時は思いもしませんでした。


2011年

この年から完全にデジタル作画に移行しました。ちなみに、その時使い始めたペンタブレットは今でも現役で使っています!作画スタイルをマンガからゲームアートの方向へ転換し、執筆活動もやめて描くことだけに集中しました。貯金は完全につき、将来への不安で押しつぶされそうな毎日でしたが、その「生存本能」からくるエネルギーをすべて作画にぶつけ、さらに描き続けました!


2012年

ついに、何度も何度も挑戦した末、ミュンヘンのゲーム開発会社でコンセプトアーティストとして正社員の職を得ることができました。そこで1年間、キャラクターのデザインと作画に明け暮れました。仕事以外の時間も練習を怠らず、週末は美術館に通って彫刻のスケッチを繰り返していました。しかし、来るべき時が来ました。右手に激痛が走り、描き続けることができなくなったのです。左手で描き続けようとしましたが、心身ともに完全に燃え尽きていることに気づきました。4年間、自分を追い込みすぎた結果、心と体が限界を迎えてしまったのです。そこで私は仕事を辞め、世界一周の旅に出ることにしました!


2013年

2年間にわたる旅の始まりでした。リラックスした気持ちで、スケッチブックに文章を書いたり絵を描いたりして過ごしました。「なぜ自分は絵を描くのか」「自分は何者なのか」「これからどう生きていきたいのか」――そんな問いを自分に投げかける、まさに「悟りの旅」でした。


2014年

ドイツに戻り、ロストックへ移住して再びデジタル作画を始めました。この時のモチベーションは、かつての自分を追い詰めた「破壊的な生存不安」ではありませんでした。もう、自分が何者であるかについて迷いはありませんでした。「描き手としてさらに向上したい」、そして「どこにも雇用されずに自分の力で生計を立てたい」という純粋な目標に向かって歩み始めました。


2015年

当時、アーティストにとって最大のプラットフォームはDeviantArtでした。そこで1年間作品を公開し続け、コミュニティを築き、定期的に依頼をいただけるようになりました。本当に素晴らしい充実した時間でした!しかし、それだけでは十分な収入を得るには至らず、フォロワーが3000人を超えたところで、さらに活動を続けていくための「根気(長期的なスタミナ)」が限界を迎えてしまいました。


2016年

この年はホームページをリニューアルし、本の表紙やイラストの依頼をいただくようになりました。また、さまざまな学校で講師として教え始めました。同時に、よりスピーディーに描ける独自のスタイル「Tentangli(テンタングリ)」という塗り絵のスタイルを考案しました。並行してオンラインショップも立ち上げ、マーケットでプリントを販売したり、50以上のモチーフを描き上げたりしました。しかし、ちょうどその頃、映画制作の大きなプロジェクトの依頼が舞い込み、このプロジェクトは一時休止することになりました。


2017年

映画制作会社で担当した背景画については、残念ながら守秘義務のため公開することができません。並行して、塗り絵や本の表紙、デジタルイラストなどの依頼も受けていました。また、多くの学校で絵画教室の講師を務めました。経済的には非常にゆとりのある状態になりましたが、仕事が増えすぎてしまったため、あえて多くの活動を整理し、いくつかの重要な案件に集中することに決めました。


2018年

「自分が心から描きたいものだけを描く!」と決め、サイトを全面的にリニューアルしました。この時期にInstagramの活用やトラベルスケッチ、イベントでの早描き(ライブスケッチ)の楽しさに目覚めました。また、オンラインマーケティングを猛勉強し、読書の時間も増やしました。2ヶ月間の日本旅行にも出かけました。少ない案件数でより高い収益を上げられるようになり、アーティストとしての人生が本当の意味で楽しくなってきたのは、まさにこの頃からです!


2020-2026年

最近の8年間 この8年間、絵の技術面での目に見える進歩はそれほど大きくありませんでした。一枚の絵に数日、時には数週間もかける時間を取らなくなったからです。家族を持つことで責任が生まれ、自分一人のためではなく、家族を支えるために十分な収入を得るべき時期が来たのです。しかしそれ以上に、私の中に「自分の技術を磨くこと」だけでなく、「アートを分かりやすく言語化し、伝えること」への強い意欲が湧いてきました。初心者から上級者まで、他の描き手の助けになりたいと考えたのです。私は本を執筆し、コンセプトを練り、動画講座を制作しました。同時に、ライブスケッチ(早描き)の技術を磨き、マーケティングやウェブサイトの改善、クライアントとの交渉術も学びました。いつかまた、作画だけに没頭する時期が来ると確信していますが、今はまず「アートを誰にでも分かるように解き明かすこと」、そして「ライブパフォーマンスを通じてより多くの人々を感動させること」を極めていきたいと思っています。

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